さて、いよいよ、満を持して、『あの日』が来る。
 中立国と平和条約を結んで七日目。アレクサンドル城は雷雲に包まれ、その時刻は昼ながらも辺りは薄暗くなっていた。

 まず、シンリという人物は、この一言に集約されるだろう。

「私は――人を――殺せない」

 自分に絶望したかのように、シンリは言った。その言葉がどれだけ愚かで、自分自身を裏切り、誰にも賞賛されず、また、特殊でない返事なのかは、シンリ自身がよーくわかっていたのだ。人どころか、動物さえ殺したことがないシンリ。そして、世界を愛しているシンリ。――でも。

「こ、こ、殺せない」

 ガタガタと震える手を頭にやって、シンリは再び呟いた。それから、まぶたを閉じて、うずくまった。正しい。何もかもが正しぎる。普通の人間としては、だが。周を見て、そして死んでいった多くの仲間達を見て、シムシ兵や7達の最期を見て、決意したはずだった。覚悟を決めたはずだった。だが、シンリはお人好しすぎるほどお人好しで、アメツキさえも予測できなかったほどの、素晴らしい人との素晴らしい出会い、つながりにより、圧倒的に強く、その分圧倒的に弱くなっていたのだった。あめつきはまたこのシンリの苦悩を見聞きして、予想以上の結果だと大声で銀に自慢するだろう。
 元首相アイゼンが使っていた私室で一人、ベッドと壁の間でうずくまるシンリは、まるで怯えきった子猫のようだった。三大国を支配し、誰もから崇められる存在となったシンリだが、さてその怯える姿は自身の本当の正体(ミックスブラッドキャット)を現しており、さらに銀の水晶玉越しにすべてを見ているアメツキを愉快にさせる。自身は不自然な夢を何回も見て、アメツキの姿も確認しているはずなのだが、都合よくも、シンリにその自覚はない。それはいかに記憶操作が巧妙であり、またシンリがその事実に『気づきたくない』のかがわかった。つまりシンリは自身の正体に自分で気づくことは『絶対に』ない。それだけシンリにとってその情報は遮断すべきもの。ならば、もしそれに『気づいた』ときは……ある程度予測がつき、ある程度は予測がつかない。
 さて、シンリの決断は今描写したとおりであり、それは不変のものである。彼は我々が想像した以上に悩み、幾度となく決断の天秤を傾けた後で、この決断をしたのだ。もう錘は考え尽くし、出し尽くしたので、重力がひっくり返ったりしない限り、動くことはないということ。ああ、でも、その天秤を再び動かせるのだとしたら……。

「シンリ」

 それはシンリの唯一無二の親友となった、ライしかいなかった。最早史上最強の王となったはずのシンリの私室の扉を静かに開け、ライは急ぐ様子で中に入った。外の警備兵二名とポチはその行為を止めようともしないのは、彼がいかにシンリの信頼を勝ち得ているかの証明である。そして、彼がいかにシンリに必要なのかの証明でもある。さらに、最強の将軍ポチも、シンリは主君だと一歩も譲らず、友とはなりえなかった証明でもある。彼と唯一対等なのは――そしてそれが言えるのは、

「全て、俺がやる」

 ライ、彼だけだという証明。シンリの苦悩は、自分の苦悩だ。後ろ手で扉を閉めて、ライは薄暗い部屋の片隅にいるシンリに視線を向けた。

「ラ……イ……?」
「シンリが悩む必要などない。世界を愛するが故に、世界に憎まれる役は俺がしよう。
 わかったんだ。俺は悟ったんだ。何故、俺には何も能力がないのか。何故、何も役に立てないのか。
 こういう役回りがちゃんと、あらかじめ用意されていたんだ。なんだか唐突に理解できたんだ」

 そういう彼の声は、乾ききっていた。アメツキはブラボーと、よく気づいたと、手を鳴らした。

「ちが……」
「違うことなんてない、シンリ。俺は、この考え方一つだけで……何か自分が違うものになれたと悟っている。シンリ、君は世界を、人間を、愛しすぎた。この役割にふさわしいのは、俺だけだ。シンリ、君だけのために生きてきて、世界も人間も実はどうでもいい、俺だけなんだよ」

 次々と襲い来る不測の事態。時はシンリを待ってくれない。時は誰も待ってはくれない。意志とは別に、時はひたすら進み続ける。ライの眼にはある種、時代を変えるモノの光が宿り、そう、どういう表現が合うのかわからないが、ライ全体の『色』がここで変わったと表現しておく。

 ――嗚呼、とシンリは息を吐いた。

コメント

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索